2.1 事実の隠し
新聞は日本軍部の傀儡になりはじめたのは30年代の初めであった。1931年9月18日、日本軍は中国軍が柳条湖における満鉄線を爆破したと主張し、中国軍を攻撃し、さらに中国東北地方全地域に侵略し、満州事変を引き起こした。翌年、満州国を樹立し、以後14年に及ぶ日中戦争の発端となった。『あれは日本軍がやったんだ』と事変後記者クラブの集会でひとりの軍幹部は認めた。しかし列席した新聞各社の経営者はその事実を報道しなかった。ただ軍の指示に従い、『中国側のせいだ!』と民衆をあおった。日中全面戦争の勃発後はその頂点に達した。南京攻略後、大量の非戦闘員殺害事件があった。日本の媒体はそれを報道することなく、中国人が日本軍を大歓迎するという見せ掛けを作り出し、日本の国民をごまかした。源^自·751·文.论,文'网]www.751com.cn
戦時中日本の新聞は軍と結託し、自分だけでなく、国民もごまかしてきたのである。今ではもちろん批判されるべきことであるが、当時の非常時期では『国益』という名目で、誰でも『自分は国益を守っているんだ』とおもって、自分自身を正当化することができた。
2.2 作られた熱狂
今残されたビデオでは、よく『万歳』を声高に叫び、両手を高く上げる人群れを見ることができる。確かに、戦時の日本はずっと熱狂の雰囲気にいた。この熱狂を作ったのは疑いなく媒体である。戦争遂行のために、媒体は国民を熱狂させつづけた。たとえば、政府は政策を打ち出すと、媒体はいつも『そんなに弱腰でどうするんだ!』、『そんなことで国益を守れるか!』と政府の方針を声高に批判する。国際問題がくると、『なんだと、正義は日本にあるんだ』と叫びつづける。ひとつの媒体がこういう流れを作ると、ほかの媒体も一斉に同じことをいう。雪だるまみたいにどんどん大きくなる。そして国民が見ると、一斉にそれに同調していくようになる。いわば、熱狂が作り出された。こうして軍と媒体と民衆という三角によって作られた世論は常に熱狂を伴う。こうした熱狂のなかで、日本は戦争の一人歩きをし始めた。
2.3 煽動
戦後、媒体の態度は一変し、自分は無責任のように戦争を仕掛けた日本政府や軍部を批判した。確かに、戦時中統制を受けていた新聞各紙は報道の自由を失ったといえるが、新聞はみずから自由を捨てた面があるという側面もある。いわば、媒体は戦争の被害者とはいえないことである。なぜなら、媒体はみずから積極的に戦争に拍車をかけることがしばしばあるからである。満州事変後、関東軍は政府の満州事変不拡大方針に違反し、東北地方全地域に兵を進めた。関東軍の動きに対してどんな態度をとるか新聞各社にとって避けられない問題である。しかしほとんどの新聞は関東軍の動きに対して賛成的な姿勢を見せた。これは関東軍の更なる暴走につながるではないかという主張も出てきた。三国同盟を締結する際、海軍省をはじめとする一部の政府機関はアメリカに遠慮し、きわめて反対であるが、各大手新聞は海軍省をはじめとする政府機関を弱虫だと強く糾弾し、日独伊三国同盟の締結を促し、日本を戦争の泥沼の奥に追い込み、あとの太平洋戦争につながった。
筆者としては、媒体の煽動は戦争が長期化を招く大きな要因のひとつであるといっても過言ではないと思う。しかし、それを助長した绪方竹虎や下村宏など朝日新聞や日本放送協会の元幹部らは責任を問われることはなかった。それにとどまらず、戦前や戦時政府の指示に疑いなく追従していたそれらの新聞は戦後態度が一変し、口をそろえ、自分も多大な犠牲を払った被害者のように日本を戦争の道へ導く政府につよく非難していた。このような言論統制の『被害者』という印象がある一方で、新聞は政府の外交政策を『弱腰』『軟弱外交』という形で糾弾し、対外強硬論を煽り、戦争を鼓動するなど、国民を開戦支持に導く役割も果たした。